紙ではありません 美味しい昆布です

金沢の近江町市場で見つけたものです

あまりの美しさと、値段の安さに感動しました

昆布はそもそも値段が張るので、びっくり

これを売っていたお店は、色んな食品を扱っていました

でも、そもそもは昆布屋さん

なのでこの値段が成り立つと、お店の方が話してくれました

紙のようで紙でない

どこかで見たことがある気がするのだけど…

そう、思い出しました

しめ鯖の昆布締めの上にのっているあれです

大好きでよく食べる、その大事な材料の一部に、初めて遭遇しました

美しい!

一袋380円です 今我が家でお味噌汁、おにぎりに大活躍です

Ultra big size "Aburaage"

A  few  years  ago

First  time  I  saw  "Aburaage -ultra  big  size"  

at  Nishiki-koji  in  Kyoto.

The  time ,the  middle  of  a  journey

I  gave  up  buying .

 

This  time  I  found  it  luckily  and  by chance  at  "Meijiya".

For  comparing  the  size,  I  lined  up  two  types.

Asahico's  aburaage , I  like  and  I  eat  normally. 

Left  side  is  the   " Kyuzaya" .      Right  side  is  the  "Asahico".   

Now , the  taste  of  Ultra  big  size  "Aburaage"  was

so  delicious  for  me .

The  texture  was  "mochi  mochi ".

The  surface  was  smooth.

The  taste  was  my  favorite.

Ultra  big  size  "Aburaage" was  interesting  and  tasty. 

 

 

 

掛け布団みたいに大きな油揚げ

以前、京都の錦小路で、大きな大きな油揚げを見つけた

本当は買って帰りたかった  でも旅の途中だったので断念した

今回、東京広尾の明治屋で、その油揚げに遭遇した

左側は、京都「久在屋」のもの   右側は、長野「アサヒコ」のもの

アサヒコの油揚げは、我が家の食卓によくのぼっている 

美味くて好きだ

大きさの違いを伝えるために並べてみた

 

砂糖と醤油で甘辛く煮て食べることにした

さて、その味である 

外側はしっとりしている そしてもちもちと食べ応えのある食感

厚過ぎず薄すぎず、全体のバランスが素晴らしい

ご馳走を食べているようだった

凄い揚げがあるものだ

ノックアウトを食らった

敦賀名物「かたパン」

歯が丈夫かどうか、食べるにはそれが条件という面白いパン

それが「かたパン」

福井駅のお土産屋さんで買ったものです

福井県敦賀の駅のお土産屋さんで買ったもの

想像です

まだパンというものが、こんなに世の中に出回っていない時

パンに憧れた人が作った一品

そんな気がするのです

日本の中の、パンの歴史にのる貴重な「パン」

味をかみしめながら、味以外のことに思いをはせました

「富山の昆布パン」に石川県のスーパーで出会う

石川県を旅した時、夕飯の調達にスーパーに行った。

夕方の値引きセール品の中に面白いものがあった。

それが「富山の昆布パン」。

 

高さ10㎝×底辺5㎝の縦長三角形、

白地の木目の細かいパン生地の中に

刻み昆布の黒い色がちらほら。

一袋に4つ、互い違いに平たく入っている。

セールで80円くらいだったかな、100円しなかった。

 

昆布とパンとの組み合わせが新鮮だった。

それもこの形に仕上げたところが面白い。

 

淡泊な印象を楽しく裏切って、ほっとする滋味深い味だった。

白飯の代わりになるイメージ。

今度出会ったら、定価で買いたい。

考える映画……食堂かたつむり

 見終わって今静かに考えている。はたして私に、この映画のようにそれまでの自分を変えるほどの料理はあっただろうかと。

 映画のなかの、食べることで人生が変わった人達がうらやましかった。また私は料理人でもないのにそういう料理を作れる主人公がうらやましかったのだ。

 はて、と人生を振り返ってみるが思いあたるものはない。食いしん坊の私にならあっても不思議はない気がするのだが。思い出せないだけだろうか。

 願いを叶えてくれる一品、何に行き詰まっているかも自覚していない人に夢で光を示してくれる一品。そんな大げさなとは思わない。たしかに食べることには大きな大きな力がある。戦時中、後に帝国ホテルの料理長となる村上信夫が戦友に作った料理で仲間がまさに生き延びた話は読んだことがある。ただそれは書かれたもので自分の体験ではない。

 私が料理の一品から受けたものはもっと小さい。そしてダイレクトでもない。ただはっきりしていることは今いる場所から掬い上げる力が確かに料理にはあるということ。浮上するのは1センチかも知れない、いや1ミリかも知れない。でもどこまでもプラスに働くのだ。それも、う~ん何だか元気になったかもとか、そんな自覚なんか全くなかったり実に地味だ。でも実質はゼロではない。

 何となく気分がすぐれない、はっきり悩み事がある、とてつもなく落ち込んでいる。それぞれの時美味しいご飯を食べれば、美味しいと感じている時は気持ちが食べることにひっぱられて、例えば気持ちの区切りがほんの少しでもついたり、一大解決とはいかなくても気分転換になったりするのだ。身近でこんな風にいつも励ましてくれるものを私は他に知らない。料理は単に食べられるだけのものでなく食べる人に言葉を発している。それも励ます言葉だけを発している。その蓄積は私の中に富士山より高くある。そしてそれは特別でない日々の中にさり気ない顔でいつもある。そこが凄い。

 この主人公は何故人を目覚めさせたり願いを叶えたりする料理を作れるのだろうか。まず料理する時の動きが静かであること。そしてどこか祈るように作ること。テキパキとは作らない。静かに流れるように呼吸を乱すことなく作る。特に作り始める時の姿は印象的だ。すぐ取りかからない。1秒2秒3秒、空を見つめている。私が料理を作る時には決してやったことがない動作だ。動かない動き。あの時彼女は食べる人を思っているのだろうか。食べる人にいい料理が作れますようにと神様に祈っているのだろうか。

 私も鍋を混ぜる時、フライパンで炒める時、にっこりしながら美味しくなあれと料理に声をかけることがある。仕上がりは違ってくる。気持ちがどこかにいったまま作るとうわの空の味になる。それはもう合わせ鏡のようだ。とするなら、穏やかに丁寧に作る時を重ねられた料理は、そんな作る人の姿勢に応えようとするだろう。そこまでしてくれるなら美味しく仕上がらないといかんなと。料理を作る人と作られる料理の相乗効果が生まれ結果、奇跡の一品が出来あがる訳た。

 書くと簡単だが何が難しいって、この静かに祈りをこめて作る積み重ねが私には出来ない。何故ならまず自分が美味しいものを食べたいから作っているだけだからだ。お腹は空いているし早く食べたいし。家族の食事を作っていてもメニューは自分の食べたいものを優先させている。家族の体調に気づかうことは時に応じてあるが、基本的に日常の通常業務では他者は存在していない。私が何を食べたいかでメニューは決まる。主人公は他者に集中出来るが、私は自分にしか集中出来ない。何だか寂しいが仕方がない。彼女はどこまでも相手を考え自分の持つ力を注ぎきる。奇跡を起こす一品が生まれる訳だ。

 でも、もし彼女が言葉を失った状態でなかったらここまで集中出来ただろうか。振り子のように、なくしたものと同じ、いやそれ以上のものを彼女は手にしている。無いということは多くを生むのだ。でもそれが出来たのは彼女は料理を作ることが好きという土台があったから。

 あらためて思う。食べることには力があると。その力の大小を比べることはあまり意味がない。残念ながら私に奇跡を起こす一品はやっぱり作れそうにないがそれでもいい。今料理を作ることが好きで料理したものを美味しいと思えるが、それだけでなく実は料理の一品から日々励ましてもらえているということ。しばらくしたら、ただ作りただ食べるだけかも知れないけれど、今ここで料理が発する言葉というものを認識出来たのだから。しかしその言葉はたどっていくと野菜や魚や肉や、材料の命あるものが発しているのだ。命が語りかけてくれているのか。今まで考えたこともなかった。

 「いただきます」は命あるものへの最低限の挨拶なのだな。おざなりで言っては駄目だな。

 

 

グラジオラスもうなだれる、雨

 黄色いグラジオラスが庭に咲いている。グラジオラスは面白い花だ。多くの花が360度いろんな方向に向かって花を咲かせるのに、一方向だけに顔向け縦にびっしりつめて咲く。咲いている方を前面とするなら、この面だけがやたらと重い。花瓶に入れると収まりが悪い。剣山でも使わない限り、重さで下を向いてしまう。いける時は扱いに工夫がいるが、その黄色の鮮やかさは他では代えがたい。
 今まさにそんなグラジオラスの季節到来なのに、毎日雨が続く。朝見ると一番下の花から少し下がった辺りでポッキリ折れうなだれている。夜通しの雨と風の中、いくら何でもあのアンバランスな作りのグラジオラスに直立を求めるのは無理があるというものだ。雨風がなくても、よくまっすぐ立っていられるなと感心しているのだから。
 「無理~」グラジオラスの声が聞こえる。そうだよ、ほんとそう思う。うなだれ折れたところで切って花瓶に生ける。鮮やかである。