プチサブレストの凄さ

 お菓子のサイズは大事。大き過ぎても小さ過ぎても気になる。サイズのことなんか何も考えず、美味しいなあとただ味わえるのが理想的だ。

 ウエストのプチサブレストは、お腹はいっぱいだけどちょっとだけお菓子を食べたい時にぴったり。厚さ3ミリ2センチ四方、たったこれだけの実に小さいものなのに、1枚食べただけでも満足出来る。美味しいなあと思う。

 何でこんなに小さいのにこんなに充足感を持てるのだろうと、思わずもう1枚手にとりながめる。手にしてしまったので、また食べる。うまくいけばこれで終わる。

 あれより小さかったら物足りないかもしれない。あれより大きかったらちょっと多いなと思うかもしれない。私のジャストサイズをどうしてウエストは知っているのだろう。

 手でつまむ時は楽しい、可愛くて。指が美味しさを予感しているので、つまむ時から美味しさは始まっている。

 私はこのお菓子を愛しているのかもしれない。

玉置浩二の素晴らしさは、あの哀しい目

 玉置浩二の歌は胸をうつ。歌詞、声で心に迫ってくる。心が動く。でも歌と共にその表情を見た時、その哀しい目が私をとらえて離さない。なんて哀しい目をしているのだろう。いったいこの人は何を見てきたのだろうと。わしづかみにされるのだ。

 私にとってそんな歌手は他にいない。全身で歌いかけてくる。あの哀しさは何なんだろう。考えながら気がつくと歌にからめとられている。哀しく心地よく。

甘酒は何故美味しいの?

 子供の頃函館に住んでいた。公営のお風呂で谷地頭温泉という大きな施設があった。当時内風呂もあったが、幼稚園の時父親と手をつないで、歌をうたいながら函館公園を抜けて何度か行ったことがある。帰りには必ず、出たところにある茶店で甘酒を飲ませてもらった。お風呂上がりにしみじみ美味しかった。でもそれ以降甘酒を飲むことは、ほとんどなくなった。一度しょうが入りの甘酒を飲んで辛くて懲りたのだ。

 それから40年の時が過ぎ、今また私は甘酒を飲んでいる。それもしょうがをたっぷり入れて。何故昔嫌いだったしょうがを入れるのか。体温を上げるためだ。平熱を上げるため。何故平熱を上げるか。免疫力を上げるため。で、やってみたらこれが美味しい。味覚は変わるのだ。でも美味しいと感じる要因のひとつは体が温まるのが自覚出来、それは気持ちのいいもので、美味しさの底上げをしていると思う。しょうが入りの甘酒を飲むことで体がぽかぽかする実感がある。その感覚が美味しさをいや増しする。

 しかし思うのだ。40年経って世の中に美味しいものがあふれているのに、それでも今でも美味しいと感じる甘酒とは何なんだろうと。甘酒のもつ何が人をほっとさせ美味しいと思わせるのだろうと。それにどうも昔からあるらしいではないか。遺伝子の中なあの味を美味しいと感じるものが組み込まれているのだろうか。

 今もってしみじみ美味しい。

美味しいジャムの基本は新鮮な材料を使うこと

 料理の本によれば、美味しいジャムを作るには新鮮な材料を使うことだという。高価とか産地を限定するとか高度な技術が必要ではなく、新鮮な材料を使うことだと。その素材が生き生きとしていると美味しいジャムが出来るということだ。

 それなら私にも出来る。スーパーで新鮮な、例えばアンズを買ってくればいい。そして次に大事なことは時おかずに作るということだ。当たり前と言えば当たり前だが、材料を全部揃えて出来た気になってはいけない。簡単な手順のものもそれなりに要注意ポイントがある。作る熱量の波に身を委ねてはいけない。作る気持ちがたとえ下降線をたどっても、ここは最初のいざ作らんのリズムのままトントントーンと作り詰めるところまで進めなければならない。

 そう、もうおわかりだろう。今日の暑さにジャム作りの上向きベクトルが波打ち停滞しているのだ。我を励ます。かつての生き生きしていたアンズが早く作ってと私に語りかけている。

 もういいだろう。さあ、糖度50パーセントのアンズジャム、作りましょ!

 

ききょうの花は、ぽん!と言って咲く

 「もうこれ以上ふくらむのは無理」。そんな声が聞こえてきそうだ。ききょうは限界まで我慢して我慢して、そして咲く。あの咲く直前の、200パーセントの緊張度のつぼみ。「こういう咲き方が好きなのよ」
 ほうせんかは、ぱん!だ。パンじゃない。パンダじゃない。その咲き方はためずにむしろ不意打ち。いや、あれは散り方か?今はじけちゃうの、というくらいその時は読めない。淡い色味の花姿にその音は、一瞬愛らしく。しかし私には、身の丈30センチ足らずの、まるで少女の心意気に聞こえる。
 はて、私は咲いたか。ぽん!と景気のいい音がそこにあったか。ききょうは、その生き方が見る者にその音の迫力を感じさせるのだ。「こういう咲き方が好きなの」で、見せるためなんかじゃない。私は今もって咲こうとしている。そこに私の「こういう咲き方が好きなの」があるだろうか。
 ききょうの咲く瞬間を見過ごしてしまった。
 
 

セラミカは生活を豊かにしてくれる

 普段使う食器が豊かだと、生活は楽しくなる。毎日食事の度、お茶の度手に触れ目に触れる。その重さ、形、色合い、使いかって等々、いろんなタイプの食器が盛る食べ物をそれ以上に見せてくれている気がする。

 セラミカを初めて見たのは10年位前だろうか。京王デパートの洋服売り場の一角にセラミカのコーナーがあった。かわいくて楽しいなと思った。朝のトーストの皿として買ったのが始まりだった。

 それから時々いろんな所で見かけるようになった。新しい初めて見る柄や形のものが必ずあり、見るだけでも楽しい。花柄が多いが、よくこれだけ素敵と思わせてくれるものを次々出せるなと感心する。生み出せる秘密は何なんだろう。

「じゃあいったい幾つ実をつければいいの?」

 今、梅をはじめベリー系など色んな種類の実のなる季節だ。微妙に時をづらして、あるいは重ねてここ一ヶ月ほど続いている。
 うちの庭でも少しだが、苺がとれた。小粒だが、なった時はとても嬉しい。最初はとれたものは食べた。甘みが少々足りなくても自前のものは割り増しして美味しく感じる。でも毎日だとだんだん飽きてくる。我ながら贅沢なと思うが実際そうなのだ。 
 スーパーで買ってくるのとは色んな意味で違う。まず当たり前だが自分で収穫しなければならない。ゴミ出しの日であっても、出かける日であっても、日差しの強い日であっても。そしてひとつひとつにこれは食べるか却下するかの判断をしながら収穫しなければならない。美しいものがほとんどの苺狩りとは違うのだ。虫にもう食べられてしまったものも、苺の底辺を見なければわからない。
 収穫したものは鮮度が命。さっと洗い土や小さい虫を落とす。ヘタを切り落とし、傷んだところがあれば削っておく。すぐ食べたい一番いい苺とジャムでも充分楽しめるものとに分ける。ジャム用の苺はジプロックに入れ冷凍する。
 収穫してからここまで大体1時間強。これが毎日。さすがにきつくて、途中から一日おきにした。もうこの頃には最初の苺の実を見つけた時の喜び、嬉しさは消え失せている。仕事だ。食べるための仕事。
 毎日食べる量だけが収穫出来るのは楽しくて嬉しくて有難い。それ以上収穫出来ると、ジャムが出来るなとやっぱり嬉しいし有難いと思う。でもこの時期、続くのだ、次から次へと。大変だと思うならやめればいいとも思う。でも店先でプラムを見れば、ちょっとだけジャム作ろうかなとやっぱり思ってしまい、結局買う。
 果物が沢山採れる所に住んでいる人は、たとえ作ることが大好きでも、分量があまりにも多く、せっかく作っても今は食べる物が豊富にあるのでちゃっちゃとはけていく訳でもなく、作る喜びよりもやらなくちゃ感のほうが強いと聞いたことがある。私は苺でほぼ1週間で音をあげた。苺を冷凍するにも冷凍室が満杯になってしまったのだ。ジャムの瓶も買い足さないと足りない。コロナで外に買いに行くのに二の足を踏む。
 庭にブラックベリーが実をつけジャムで楽しんでいたことがある。でもあれは蔓で際限なく伸びていくのだ。収拾がつかなくなって結局撤去した。外国でブラックベリーは駆除対象の木になっている国があると聞いた。切ないがわかる。
 「じゃあいったいどれ位実をつけるのだったらいいの?」ブラックベリーの声が聞こえてくるようだ。
 ん~、ほどほどかな。