食べる時は味を考えている

 子供の頃食事の時は黙って食べなさないと父親に言われて育った。食事の時間は特に楽しくもなかったが、苦痛でもなかった。黙って食べる分、味に集中して、考えながら食べていた。これは美味しいとか、またこれかとか、これは美味しくないとか、初めての味だなとか。しゃべりながら食べても感じることかも知れないが、抱いた感情が全く薄まらないのだ。増幅もされない。味に集中出来た環境は食いしん坊の私にとってある意味幸いだったのかも知れない。

 今、普段なかなか食べる機会のないものを奮発して食べて、後でその時の味の記憶がないとき、本当に泣きたくなる。いったい何のために食べたのかと。人にも伝えられない。伝えるために食べる訳ではない。でも美味しいものは伝えたい。それが覚えていない。何故か考えると話に夢中になっていたからだとわかる。二つのことを同時にしようなんて無理だ。まして両方共楽しく嬉しいことなら出来る訳がない。楽しくてワハハッと笑って味わうのを忘れて飲み込む。それがトリュフだったりして、後でどんな味だったと問われても答えられない。 

 今コロナ対策としてあまり喋らず横並びで食べることが勧められている。何だか寂しい感じがしないでもない。でもその静かな食事環境の中で、味の新たな発見があったりもするのではと思う。

実のなる木は、夢の木

 毎日散歩をしている。大体30分くらい。コースはいくつかあってその日の気分や諸事情できまる。雨が降ってきそうだから20分コースにしようとか、いつもより早起きしたから少し長く歩こうとか。

 今の楽しみは、なんと言っても実のなる木を見ることだ。びわ、サクランボが終わり梅の実が大きくなり色づく。かりんは一本の木にいったいどれだけ実をつけるのかという位、じつに満遍なく実をつける。ざくろの花の清らかなオレンジ色の美しさよ!花が終わるとすぐ、花の下の部分が膨れ実の準備に入る。これから咲こうという花のつぼみと同時並行ですすむ。

 そして昨日近所で見つけたプラム!知らなかった、プラムの木があるなんて!見上げると大きな木に鈴なりにどこもかしこもなっている。夢のようだ。小粒だが赤ワイン色に色づいているのが、手の届かない高さの所に見える。ここは果樹園だろうか。いったい誰が植えたのだろう。植えた人は食べているだろうか。山梨のプラム畑のプラムの木より実つきがいい。 

 しかし、どうして実のなる木を見るとこうもワクワク嬉しくなるのだろう。いにしえ人の遺伝子なのだろうか。

立って書く?座って書く?

 私は今このブログを立って書いている。初めてである。
 日々いろんな生活の見直しをしている。数年前腰が痛かった。この時、高さの調整がきく机に変え、椅子もぴったり合ったものに変えた。それまでは息子が使わなくなった机と椅子を何も考えないで使っていた。しかしこの机の面は高く、椅子はそれに合うように高くして使っていたのだ。調整しても、ちょっと足を動かすと浮いた状態だった。いつも足もと、腰辺りが落ち着かない感じだった。腰痛をきっかけに自分に合ったものを探した。なかなか見つからなかった。が、
こればかりは自分で売り場に足を運び実際に座り試しながら探すしかない。その時ようやく見つけたものを今も使っている。
 その机の上に、これまた高さの調整のきく軽量簡易テーブルを置き、そこでこのブログを書いている。要は立って書いている。最近会社の会議なども立って行うところが出てきているという。能率が上がるらしい。
 ブログはどう違うのだろう。今ここまで書いてきて座って書くのと違いがあるだろうか。適当に足の軸を右、左、中心と変えて、それで気分転換をしている気がする。座る姿勢から立つ姿勢へと大きく変える必要がない。ただそれが書くうえでいいことなのか、その辺りはよくわからない。でもしばらくは立って書くのを続けてみよう。何故か。足のももの裏に負担がかからない点が気持ちいいのだ。

立って書く?座って書く?

 私は今このブログを立って書いている。初めてである。
 日々いろんな生活の見直しをしている。数年前腰が痛かった。この時、高さの調整がきく机に変え、椅子もぴったり合ったものに変えた。それまでは息子が使わなくなった机と椅子を何も考えないで使っていた。しかしこの机の面は高く、椅子はそれに合うように高くして使っていたのだ。調整しても、ちょっと足を動かすと浮いた状態だった。いつも足もと、腰辺りが落ち着かない感じだった。腰痛をきっかけに自分に合ったものを探した。なかなか見つからなかった。が、こればかりは自分で売り場に足を運び実際に座り試しながら探すしかない。その時ようやく見つけたものを今も使っている。
 その机の上に、これまた高さの調整のきく軽量簡易テーブルを置き、そこでこのブログを書いている

この世からなくなったら生きて入れない食べ物は

 それは小豆の煮たのだ。毎日小豆を食べている。80パーセントが砂糖を入れてただ煮たもの。小豆対砂糖の割合は5:4。砂糖は黒砂糖ときび糖が半々。これを食事の締めに食べる。ほ~っとする。例えば夕飯にステーキを奮発して美味しいなあと思いながら食べても、最後に小豆の煮たのを食べると、なんて美味しいんだろうとやっぱり思う。私にとって小豆を超える食べ物はないのかも知れない。そしてその美味しさは単に味覚だけでなく、体をリラックスさせてくれるのだ。実際小豆の成分にそういうものが含まれているのか、今までの小豆を食べた経験値としていい思い出がリラックスに通じるのかわからない。身も心もほぐれていく。温泉のような小豆。温泉は飲んで美味しい~とはならないが、小豆はリラックスにプラスしていい具合に美味しいのだ。こんな素晴らしい食べ物は他にない。という訳で、今日もせっせと小豆を煮るのである。

 

グラス1センチの晩酌が私を救う

 梅酒をグラスに1センチ、それを水割りにして呑む。夕飯のあたまにこれをやると「あ~、今日はもう店仕舞いだ」とほっとできる。たった1センチでいい。これがないと、今日という日が終わったんだか終わっていないんだか釈然としない。なし崩し的に寝る時間になる。気分的にすっきりしない。メリハリのための1センチ。
 つまみはあると楽しいが、大したものはいらない。ベビーチーズがあればオッケー。味の種類は沢山ほしい。その日の気分で選びたい。焦がし醤油味のチーズの美味しいこと!
 なんて簡単な私でしょう。我ながら思う。でもこれがベストなのだ。夕飯の後片付けがあるから酔いたくない。お風呂にも入らなきゃいけないし。ちょっとだけ本も読みたい。でも今日無事終えた、これ以降はリラックスというメリハリを確かに感じたい。となると梅酒1センチの水割りが最適なのだ。く~、旨い。く~、寛ぐ。時間にしたらたかだか2,3分。大事な大事な1,2,3。私は簡単である。

日本中の蒲鉾が気になるようになった

 世界の料理でかまぼこを取り上げ失敗し、それがきっかけになって大分に蒲鉾屋さんや昔漁村の夫人達でかまぼこを作っていた人に話を聞きに行った。それ以来スーパーで蒲鉾が気になって仕方がない。その店その店で、扱っている商品が微妙に違う。それが面白い。日本中の蒲鉾が気になっている。例えば母の生まれた福岡にはたかな巻という蒲鉾がある。これまた九州のたかなで蒲鉾を巻いたものだ。切り口の色は渋く、たかなの香ばしさと海の幸の味が合って酒の肴に最適だそうだ。いかしゅうまいも美味しそうだ。かまぼこ作りに失敗しなかったら、大分への旅はなかったと思う。そしてかまぼこへの興味、関心もそこでストップしていただろう。失敗は次を連れてくるね。私の場合は美味しいものを連れてくるね。失敗、ヤッホー!