考える映画……食堂かたつむり

 見終わって今静かに考えている。はたして私に、この映画のようにそれまでの自分を変えるほどの料理はあっただろうかと。

 映画のなかの、食べることで人生が変わった人達がうらやましかった。また私は料理人でもないのにそういう料理を作れる主人公がうらやましかったのだ。

 はて、と人生を振り返ってみるが思いあたるものはない。食いしん坊の私にならあっても不思議はない気がするのだが。思い出せないだけだろうか。

 願いを叶えてくれる一品、何に行き詰まっているかも自覚していない人に夢で光を示してくれる一品。そんな大げさなとは思わない。たしかに食べることには大きな大きな力がある。戦時中、後に帝国ホテルの料理長となる村上信夫が戦友に作った料理で仲間がまさに生き延びた話は読んだことがある。ただそれは書かれたもので自分の体験ではない。

 私が料理の一品から受けたものはもっと小さい。そしてダイレクトでもない。ただはっきりしていることは今いる場所から掬い上げる力が確かに料理にはあるということ。浮上するのは1センチかも知れない、いや1ミリかも知れない。でもどこまでもプラスに働くのだ。それも、う~ん何だか元気になったかもとか、そんな自覚なんか全くなかったり実に地味だ。でも実質はゼロではない。

 何となく気分がすぐれない、はっきり悩み事がある、とてつもなく落ち込んでいる。それぞれの時美味しいご飯を食べれば、美味しいと感じている時は気持ちが食べることにひっぱられて、例えば気持ちの区切りがほんの少しでもついたり、一大解決とはいかなくても気分転換になったりするのだ。身近でこんな風にいつも励ましてくれるものを私は他に知らない。料理は単に食べられるだけのものでなく食べる人に言葉を発している。それも励ます言葉だけを発している。その蓄積は私の中に富士山より高くある。そしてそれは特別でない日々の中にさり気ない顔でいつもある。そこが凄い。

 この主人公は何故人を目覚めさせたり願いを叶えたりする料理を作れるのだろうか。まず料理する時の動きが静かであること。そしてどこか祈るように作ること。テキパキとは作らない。静かに流れるように呼吸を乱すことなく作る。特に作り始める時の姿は印象的だ。すぐ取りかからない。1秒2秒3秒、空を見つめている。私が料理を作る時には決してやったことがない動作だ。動かない動き。あの時彼女は食べる人を思っているのだろうか。食べる人にいい料理が作れますようにと神様に祈っているのだろうか。

 私も鍋を混ぜる時、フライパンで炒める時、にっこりしながら美味しくなあれと料理に声をかけることがある。仕上がりは違ってくる。気持ちがどこかにいったまま作るとうわの空の味になる。それはもう合わせ鏡のようだ。とするなら、穏やかに丁寧に作る時を重ねられた料理は、そんな作る人の姿勢に応えようとするだろう。そこまでしてくれるなら美味しく仕上がらないといかんなと。料理を作る人と作られる料理の相乗効果が生まれ結果、奇跡の一品が出来あがる訳た。

 書くと簡単だが何が難しいって、この静かに祈りをこめて作る積み重ねが私には出来ない。何故ならまず自分が美味しいものを食べたいから作っているだけだからだ。お腹は空いているし早く食べたいし。家族の食事を作っていてもメニューは自分の食べたいものを優先させている。家族の体調に気づかうことは時に応じてあるが、基本的に日常の通常業務では他者は存在していない。私が何を食べたいかでメニューは決まる。主人公は他者に集中出来るが、私は自分にしか集中出来ない。何だか寂しいが仕方がない。彼女はどこまでも相手を考え自分の持つ力を注ぎきる。奇跡を起こす一品が生まれる訳だ。

 でも、もし彼女が言葉を失った状態でなかったらここまで集中出来ただろうか。振り子のように、なくしたものと同じ、いやそれ以上のものを彼女は手にしている。無いということは多くを生むのだ。でもそれが出来たのは彼女は料理を作ることが好きという土台があったから。

 あらためて思う。食べることには力があると。その力の大小を比べることはあまり意味がない。残念ながら私に奇跡を起こす一品はやっぱり作れそうにないがそれでもいい。今料理を作ることが好きで料理したものを美味しいと思えるが、それだけでなく実は料理の一品から日々励ましてもらえているということ。しばらくしたら、ただ作りただ食べるだけかも知れないけれど、今ここで料理が発する言葉というものを認識出来たのだから。しかしその言葉はたどっていくと野菜や魚や肉や、材料の命あるものが発しているのだ。命が語りかけてくれているのか。今まで考えたこともなかった。

 「いただきます」は命あるものへの最低限の挨拶なのだな。おざなりで言っては駄目だな。