母の像を結べるか それは時にゆだねよう

     母には兄と二人の妹がいた。子供のころ勉強しているとお兄さんから、女のくせに勉強なんかするなと言われたと何度も聞かされた。母は勉強が好きでもっと勉強をしかったんだなと思いながら聞いていた。しかし親ではなく兄から言われるというのがすごい。お父さんから言われたとは聞いたことがない。同じ子供どうしで、同じ兄弟で指図するのが私の感覚からすると考えられない。強烈なずれを感じる。これが九州なのか、それとも九州の長男なのか、あるいは福岡の男なのか。大正初期生まれの母とその兄なら、別に九州でなくても女は勉強なんかするなという時代の感覚なのだろうか。昭和30年生まれの自分には、遠い感覚だ。はっきりしていることは、とにかくお兄さんからそう言われて母は凄く嫌だったということだ。私にも兄がいるが、自分が勉強しているとき女のくせに勉強なんかするなと言われたことは一度もない。親からもだ。

     母の口から標準語以外を聞いたことがない。博多弁を話していたのだろうか。久留米はそれとは違っていたのだろうか。今回の旅で母が生まれた土地には立った。でも母を子供のころに巻き戻して像を結ぶことはまだできない。私は像を結びたいのだろうか。一瞬でいい、誤解でもいい、脳裏にこの土地での母の姿を見たい。そう思ってここ久留米までやってきた気がする。生まれた家もない、まわりにそれと知る人もいない、これでは無理なのだろうか。何かひとつあればいい気がするのだが、それがなんなのか。

     二泊三日の限られた時間の中で出会った人々。その中に感じる、とくに女の人に感じる気風のよさ、サービス精神、さっぱりした感じなど。それは母をとおして娘である私の中に遺伝子としては受け継がれているんだなと思えるのはうれしい。でもそれは子供の頃の母が一瞬でも垣間見えるのとは違う。

     欲張りなのかもしれない。期せずして、母が生きていれば100歳のまさに誕生日に、娘である私が60歳で母の生地を訪ねることができた。それは奇跡とよんでいいものだ。時を待とう。時にゆだねよう。出会った人、すれ違った人、美味しかったもの、そのすべてを何度でも味わおう。何度でも思い出し味わうことができる。だって実際に行ったのだもの。自分の足でその地に立ったのだもの。