鉄は熱いうちに打て 旅の記録は時をおかずに書け

     記憶とは何だろう。

     例えば何人かでどこかに行く。その時の話を後日した時「花きれいだったね」と誰かが言っても「え?そんな花咲いてた?」と話しがかみあわないことはよくある。たとえ同じ場所を歩いていても視線が違うのだ。またたとえ同じ方角を見ていたとしても、心のありかによって、目の前のものが実は全く目に入っていないときもある。その時とてもお腹がすいていてとか、トイレに行きたくてとか、時間が気になってとか。とすると、同じものを見ていて同じように記憶にもあるとしたら、そのほうが奇跡かもしれない。

     ただ、この「同じように」は言葉であらわれたものでしかない。例えばその花は何色でどんな形でなど細かい記憶にすすんでいくと各自バラバラかもしれない。同じ一つの言葉であらわされるものでも、どこまでも「おのおのの」記憶の中のそれなのだ。当たり前といえば当たり前だが、ずいぶんかけ離れたものをイメージしながら、でも言葉は同じ「花」で会話はすすむ。たまたま突き詰めたら、あまりの違いにびっくりなんてこともありえる。

   そしていつも不思議に思うこと。どんなことが、どんなものが基準となって記憶に残るのだろうということ。旅に行く。覚えていることとそうでないことがある。どうしてこんなことを覚えているのだろうと思うことは多い。旅の最中、強烈な印象を受けることがあっても、家に帰ってきてからそれが同じ度合で記憶にとどまっているかというと全然比例しない。考えてふりわけている訳ではない。無意識の何かが働いているのか、はたまたなりゆきなのか。なんでこんな細かいささいなこと、場所、ものを覚えているのだろうと何度も思い、現地では大きく心が動いたと思ったのに人に話すときにはほとんど薄れている経験が何度もある。

     言えることは、何が自分の中に残るかわからないから体験は豊かに!だ。それくらいしか言えない。